絹に「食べさせて」もらった時代

 横浜産のシルクスカーフをいただいた。
 私にとっては久しぶりにスカーフをまとう事になりましたが、やはりシルクは薄くても暖かく、そしてそのまま室内で着用しても蒸れない。しなやかでスルッと滑らかな肌触り。フリースのネックウォーマーばかり使っていたのですが、チクチクと刺激がある時が結構多く改めてシルクは本当に最高の肌触りだと気づいたことが絹を調べるきっかけになりました。

 なんと絹の生産は紀元前から始まっていたそうです。
 紀元前の古代中国で蚕の繭から繊維が採れることを発見。それを利用し、すでに「蚕を飼い」「繭から糸を紡いで」「織物にする」という一連の絹の生活への利用が確立され、その独特の風合いと着心地の良さで、一度触っただけで人々を虜にし、こぞって絹織物を求めました。
 古代中国独自の高級交易品として、国を支えるほどの産業として発展を遂げました。
 この重要交易品の流通路として整えられたのが、おなじみのシルクロードでした。
 これは一般常識ですが、振り返ってみると「ああ、こういうことだったのか」と、あらためて頭に飲み込む次第。
 学校で習ったり、高校時代当時は「NHKスペシャル シルクロード」の放送もあり、日本中がオリエンタルな風に吹かれたのにも関わらず、実感していなかったのです。

 そのシルクロードの東の最果て、日本への渡来は、吉野ケ里遺跡からも絹織物が出土されるなど、日本での養蚕業は弥生時代に始まったともいわれています。
 ある一部の限られた人々しか着用されることのなかった絹織物は、長い間、おもに献上品として生産されていましたが、江戸文化の開花と国内諸藩の財政再建の奨励作物としての養蚕が相まって、その生産に拍車がかかりました。
 西陣織や博多織、各種の錦に絞りに紬、ちりめん、羽二重、お召しに銘仙と多様な織物が生まれて行きます。
 群馬県や信州などの各地で生産された繭は、中山道などの街道を通じて運搬され、八王子宿に一挙に集められ江戸まで運んだといわれています。

山下公園まで延びていた線路の高架跡

山下公園に残るホーム跡
 横浜港開港を受けて、海外への貿易輸出化。また、それにかかわる生産の発展は目覚ましく、織機・紡績機の改良を伴った国内的産業革命となって大きなうねりとなりました。国の基幹産業と大きく成長していったのです。

 八王子宿の集積も量数が飛躍的に増大し、横浜港まで一気に運搬するために、現在の横浜線の元となる私鉄「横浜鉄道」も開業し、明治、大正と、一気に世界に向けて世界一の生産国として、生糸市場を席巻して行きます。
 生糸に関係する生産、紡績、流通、取引業者が軒並み横浜に集約しました。
 それにまつわるお金の問題も忘れてはならず、銀行各社も港の周りに次々と支店を設けました。今でも、支店としては豪奢な銀行建物が現存しています。
 反対に、横浜に本社がある横浜銀行は、富岡製糸場で有名な群馬県に、現在も3店舗の支店が営業しています。

 二度の大戦を経て、現在では生糸の輸出減少に重ねて、安価な外国産の生糸が市場を席巻し、日本国内の養蚕家は減少。それによる国内生糸市場の上場廃止、国の補助金打ち切りと残念ながら、生糸の生産国としては減少の傾向にあります。

 神奈川県内の養蚕業はすでに2010年の秋の出荷を最後に全て廃業しています。
 しかし、小惑星探査機はやぶさのミッション成功や横浜出身の古川聡宇宙飛行士がISS長期滞在と航空宇宙産業に沸いている神奈川県。
 活気づく宇宙産業と養蚕の灯火が接点になり、神奈川県立相原高校の食品化学班が蚕のさなぎの豊富な栄養素に着目し、来たるべき宇宙農業時代にと食品開発を開始しました。
 養蚕業は新しい時代を開拓し始めています。

象の鼻から見た横浜税関
(写真・文/橋口)